[陸上競技部]48秒の中で輝きたい! |
2013.02.01 |
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『48秒の中で輝きたい!』
武南高校陸上競技部出身、オリンピックに3大会も出場した陸上競技界のスーパースター山崎一彦先輩は、スランプになることもなく、勝ち続けた強靭な男ではありませんでした。
「48秒の中で輝きたい。そのためにどうすればいいのか。」
自問自答し続け、諦めずにまじめに取り組んだ努力の人だったのです。
今日は、シドニーオリンピック前、陸上選手としても悩んでいた時に、武南高校の3年生を送る会のゲストとして壇上に立ってくれた時の話の抜粋をご紹介します。
私が武南高校に入学したのは、中学時代(与野市立八王子中学校)に陸上部で110mハードルを練習していたのですが、顧問の先生の異動することとなり、また椎間板ヘルニアで腰を痛めてもいたので、挫折しかかっていた時、中学の顧問の先生に、「武南へ練習に行って来い!」と言われ、ハードルの練習を武南の陸上競技部の先生にみてもらったのが入学したきっかけです。
武南高校に入学してから400mハードルを始めました。トラックー周の中にハードルが10台並んでいる、そういう種目です。たまたま400mが速かったので始めたのですが、高知インターハイで4位、北海道国体では優勝しました。そのころから同学年の斎藤選手がライバルとして現れました。大学では彼に一度も勝てませんでした。
大学へは、陸上をやる目的で入りました。大学は楽しいところです。合コンやらお酒飲んだりと遊びがいっぱいある中で、私は陸上と勉学を両立していくことを目標としました。大学でのトレーニングは、監督がいてのつきっきりの練習ではなく、自分で目標を定め自由に練習をします。私は、前日に遊んでも、翌日はちゃんと練習をする。それを自分の約束事としました。バルセロナオリンピックを目指して頑張ってはいましたが、練習もやるが遊んでもいたためライバルに勝てませんでした。記録が伸びないのです。
追い討ちをかけたのが、大学2年の頃、不況で父の会社が倒産したことです。今まで親の金で大学に入り、遊んでもいましたが、父の会社が倒産したことをきっかけにして、陸上一本でやる。陸上にかける。自らが変わらなければと、それが転機になりました。
その当時、私は、“第3の男”と言われていました。400メートルハードルでは、私より速い人が2人いました。ずっとこの2人には勝てないのです。ですが、努力が実り、大学3年の時の1992年、バルセロナオリンピックに出場しました。その後94年に無事大学を卒業しましたが、卒業目前まで就職が決まりませんでした。景気が悪く、陸上をやってお金をもらうことは、たとえ、オリンピックに出ていても、まったく就職ができないのです。
マラソンや箱根駅伝などはマスコミなどで大きく取り上げられています。ある企業の社長から「君の種目はテレビに映るのは1分だが、マラソンは2時間だ。」と言われました。企業に入る以上、宣伝の媒休として使われる。そのひと言で私は今まで何をやっていたのだろう、私のやってきたことが否定された気持ちになり少し落ち込んでしまいました。
デサントに拾ってもらったのは卒業間際でした。この年、箱根駅伝で母校の順天堂大学が優勝しました。デサントは順天堂大学のユニホ→ムの契約を取りたかったのでしよう、私はその交換でデサントに採用されました。
私はプロとしてやっていこうと思いました。会社からお金をもらう以上、成績で私の給料が決まります。このころ“第3の男”が、第4の、第5の男になっていました。漠然と練習しているだけでは、成績は上がりません。成績を上けるために私は海外に行きました。当時は世界ランキンク16位でした。
世界に出ると知らない人ばかりです。試合も全然ありません。「山崎ってだれ?」とこんな感じです。草試合のような試合しかありませんので、これではメシが食えません。海外で試合に出られれば3日間ぐらいはご飯が食べられます。こういう状態で安いホテルに一人の生活が続きます。やっと試合が出られるころには精神的にもまいっていて、成果も上がりませんでした。海外では一人ですから自分を表現しなければ埋没してしまいます。しゃべれなくとも開き直ろうと自分の考えを変え、そうすることで自分の世界が広がっていきました。
1995時の世界選手権で7位に入賞しました。様々な経験から、違った角度から物事を考えられるようになり、試合前のビビリが一気になくなりました。「緊張するな」と言われると緊張してしまうものですが、私は緊張すると走ることができるように、緊張を自分の味方にして自分を高めていました。この頃、アトランタオリンピックが最大の目標でした。世界選手権7位だったことから、「次はメダルだ」等々新聞は書き立てました。ですが…結果は予選落ちでした。この4年間はバルセロナオリンピックもアトランタオリンピックも予選落ちでした。バルセロナは実力通りの予選落ちなら、アトランタは期待された中での予選落ちでした。後半に抜かれてしまいました。最後のハードルをトップで越え、その後2人に抜かれたのです。流したつもりはありませんでした。それまで新聞は「期待」等書いていて、この試合を手の平を返したように「流した」とか「慢心」と書きました。私はいったい何をしていたのだろうなど心に整理がつきませんでした。何のためのオリンピックだったのだろうか。
1997年の世界選手権に再起をかけました。オリンピックの失敗を繰り返えしてはいけないと。しかし、この時ほど心のバランスの大切さを痛感したことはありません。この大会では準決勝でアキレス腱が痛くて途中棄権しました。どうして痛くなったのか、それはオリンピックでの失敗もあり、心のどこかで「やりたくない」、しかし、「やらなければ」という葛藤が、ケガとなって現れたのだと思います。いやいやだと本当にケガをします。ケガしてから3ケ月間走れませんでした。
人に勝ちたいと思っていても、どうしても負けてばかり。タイムにもはっきり現れ、私が休んでいる間に自分の持っていた日本記録もなくなってしまいました。しかし、私は、この間、負けることを恐れてはいけない、勝負をうやむやにしてはいけない、たとえ負けても負けから学び次の練習につないでいこう。ということを学びました。
私の今後の日標はシドニーオリンピックです。シドニーではアトランタの失敗をどうしても取りかえしたいと思っています。29歳になり、ケガが治るかどうかもわかりません。どうなっていくか楽しんでいます。今は落ち目です。スランプに陥っています。「あいつは今までの名声が終わった」とも言われています。あと2年です。マラソンばかりテレビで放映されていて、みなさんは陸上を見る機会がないかも知れません。私は48秒に凝縮された中で輝きたいと思います。アトランタオリンピック以降48秒のために頑張ってきました。ある社長に「2時間テレビに映れ!」と言われましたが、私は48秒間で自分を表現したいと思います。
心の葛藤まで赤裸々に語る陸上競技会のスーパースターの姿は、全校生徒の心を打ちました。そして、心から応援したいと思いました。そんな武南の生徒の思いが届いたのか、彼の真摯な努力が実を結び、シドニーオリンピック出場と結びついたのでした。
陸上競技者として、人間として、素晴らしい逸材を輩出している武南高校陸上部。現役選手たちの中から、日本陸連強化本部長 山崎先輩のメガネに叶う選手が現れますように…。応援よろしくお願いします。